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吉原食糧株式会社
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知っとる?さぬきうどん

さぬきうどんの在る風景

私たち香川県に住む者にとって、うどんは(昭和30年代頃から)日常の食べ物であり、又法要の時には、お膳にのったうどん(湯だめうどん)が必ず出されましたし、半夏(はんげ)うどんと言われるように、田植えの後の農作業の節目を象徴する食べ物でもありました。

半夏生(はんげしょう)とは、7月2日頃のことで、この日は香川の農家の人にとって大切な節目となる日、田植えがこの日までに終わらないと米のでき具合が半分になる(「半夏半作(はんげはんさく)」)と言われていました。昔は田植定規(じょうぎ)を持って手で植えていたので、田植えがこの時期まで伸びることもあったからです。

昭和30年代後半 私がまだ小さな子供の頃、長い読経の後、黒塗りの高膳に乗せて運ばれてくる湯だめうどんは、なによりのご馳走でした。

湯だめうどんとは、丼か飯椀に温めたうどんを入れ、湯をはり、濃い目のつけつゆは小さめなお椀かうどん猪口、薬味はネギと生姜が手小(小皿)に付いてくるだけですが、それが何ともご馳走に思えたのです。
つけつゆに使う煮干(イリコ)の良い香りが台所から漂ってくると、もう嬉しくてお膳にのったうどんが出て来るのを待ちきれないほどでした。

当時のうどんは、麺そのものに味と香りが強く、法事の湯だめうどんを食べる時、私はつけつゆに浸けずに、うどんそのものを食べるのが好きでした。その方が、なんとも旨みのある味がして、とても美味しく感じられたのです。
当時から、香川県産小麦のうどんは、旨みと風味の強い特性を持っていたと思います。

私が食べていた当時のうどんの小麦は、昭和30年代から40年代前半の香川県産小麦ジュンレイコムギ~ウシオコムギということになります。記録によるとその頃には、まだオーストラリア産小麦の輸入量はごく少なかったのです。
(本サイトの「さぬきの夢2000」小麦開発ストーリーを参照してください。)

住み家が製粉工場の中にあるような当時の環境の中、子供の頃の私の遊びは作業者が、ドンゴロス(粗い麻布で作った麻袋のこと)入った小麦を次々と切り込み場で空けていき、山のようになった小麦の中に裸足になって入って転げたり、網を通して下に吸い込まれていく小麦のこそばゆい感触を足の甲で感じたりして遊ぶことでした。小麦の中で遊ぶと、小麦の皮の砕片が服の中に入るのか、背中がチクチクと痒くなるのでした。

小麦粒には小麦独特の穀物の匂いがあります。輸入麦よりも、香川県産の小麦には独特のより強い匂いがあります。今でも、さぬきの夢2000が工場に入庫してくると 当時を鮮明に思い起こさせる独特の匂いを感じます。

私の親父は水屋(江戸時代からの名称:台所戸棚のことで、水屋と呼ばれる台所戸棚が土間に面した廊下に置かれたりしていた。)の前におかっこに座って(正座のこと)どんぶりのうどんをすすっていました。
大きな親父が、おかっこに座って向こうを向いてうどんを食べているその背中の姿は印象的で 小学校から帰るとよくその姿を見かけ、昨日のことのように思い浮かべることができます。
今でいう、醤油うどん...父は近くの製麺所から母が玉で買ってきた茹うどんに、醤油をかけ 生姜を少々入れて 製粉の仕事の合間によく食べていたのでした。

私の家では、昭和30年代には、近くに製麺所があったこともあり、そこからうどんを昼になると買ってくるのが日常化していました。ほとんど毎日 台所にはうどん玉がセイロに布巾をかけられて置いてあったのでした。

配達をする大人が小麦粉を何袋も台車に積み、それを引っ張って製麺所へ持って行く、その台車に乗ったり或いは付いていき、製麺所のおやっさんに「ボクよ、来たんなら踏んでいけぇぃ」と言われて、ゴザにまかれた何枚もの座布団状のうどん生地を踏んだりしたものでした。

<続く>

掲載日 : 2012年3月13日